こんにちは。まさおです!
今、国語の読解力に関する議論が様々な場で行われています。それは、新指導要領からスタートする「論理国語」「文学国語」といった区分けに端を発しています。どちらかを排他的にしか選択できなところも多く、様々な問題をはらんでいます。
今回は「論理国語と読解国語の取り扱い」について取り上げます。
そもそも「読解力」とは何なのか
過去にこのブログでも何度か「読解力」を向上させるための方法を紹介してきました。世の中のいろいろな議論を見ると「読解力」という言葉自体の定義があいまいで、それぞれの議論の中で「読解力」という言葉が都合よく使われているように思います。
「読解力」とはどんな力なのでしょうか?
自分が20年にわたって塾の現場で国語ばかりを教えてきてたどり着いた結論は以下の通りです。
読解力=発信者の意図を正しく読み取る(つかみ取る)力
究極的に言えばこれに尽きます。
そこには文学も論理もなく、どんな文章であれ必ず発信者が伝えたい意図があり、その意図をくみ取ることが読解ということです。
ところが、今の国語は(残念なことに)「読解のテクニック」というもの(教える側が勝手にテクニック化したもの)が横行してしまい、学習する側も楽して得点が取れればよいという安易な判断から、本来の読解を軽視した学習に偏りつつあります。これを是正しなければ、日本人の読解力の向上は望めないと思います。
私は今の日本人の読解力が過去の世代に比べて落ちているとはあまり感じていません。ただ、長い文章にしっかり向き合ってこの人が言おうとしていることをきちんとくみ取ろうという意欲が足りない人は増えてきたように思います。
本来文章に文学的とか論理的という区分はない
「文学国語」「論理国語」という考え方が危険と感じるは背景には、文章を書く側に「さあ、今日は文学国語を書くぞ」「論理国語を書くぞ」という意識がないことがあります。
本来、文章の書き手は、自分の心の中に伝えたい何らかのメッセージがあって、それを文字を使って読者に伝えようとします。その題材が文学的な表現を使うことによってより効果的に伝わるのであれば、小説のような形態をとるでしょうし、逆に、論理的な構成を重視した表現の方が伝わりやすければ表論文のような論理的な文章の形態をとるでしょう。
つまり、「論理国語」や「文学国語」はゴールにたどり着くためのルートの違いにすぎないということです。東京から京都に行くのに東海道を通るのか中央道を通るのかといった違いであって、それをことさらに強調しすぎると本質が見えなくなってしまいます。
自分の国語の授業解説の傾向として、経験を積めば積むほど、文学的文章と説明的文章の問題解説の方法が似通ってきたということがありました。つまり、文章を読んで相手の言いたいことをくみ取る手法というのは本来そんなにバリエーションなどないということです。
「論理国語」を重視すると読解力が下がりかねない理由
どうやら新指導要領下においては、多くの高校が「論理国語」を採択するようです。学校によっては総単位数の関係もあって、「論理国語」を選択すると「文学国語」が履修できないというところもあるようです。しかもそれなりに多い様子です。
本当に文部科学省の偉い人はこれで読解力が身につくと考えているのでしょうか。そうだとしたら国語のことがあまりわかっていない方が考えたのかもしれません。
本来、読解に必要な要素というのはその文章に書かれている内容だけでなく、その周囲の常識や国のしきたり、民族的な伝統という文章外の要素が読解内容に影響を与えます。
頭をなでるという行為が好意的にに捉えられる国と、相手に対する侮辱の意味でとらえられる国では、同じ行為の描写をしてもその意味するところ(相手に伝わる内容)には差が出て来ます。
その意味において、読解を文章内の論理だけで片付けようとするのは大変危険な教育だと思います。説明したい事項を筋道立てて無駄なく伝えようとする論理国語の内容はある意味合理的で現代風なのだと思いますが、それによりコミュニケーション上非常に重要な、表現の「あそび(=余裕)」の部分が抜け落ちてしまう可能性があります。
受験生の皆さんは、ぜひ論理国語ばかりでなく文学国語の内容にも首を突っ込むようにしてみてください。文学国語の世界を知らないと人間としての厚みがなくなっていきます。授業で履修しなくても有名な小説を読んでその内容について自分なりに考えてみてください。長い人生でその経験が意味を持っていると感じる場面が少なからずあるはずです。
コメント