読解力を向上させる「言の葉」の理解 ~紀貫之に学ぶ言葉の正体~

双葉 読解力をつける
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まさお
まさお

国語の読解力がなかなか身につかないという人は多いと思います。文章は言葉の重なって出来上がっています。この言葉。あるのが当たり前ですが、言葉とは一体なんなのでしょうか。
国語の読解とはつまるところ言葉の解釈ですので、言葉とは何かを知ることで理解は深まると思います。

この記事で学べる+α知識

言葉」とは人の「心の種」から伸びてきた「言語の葉」だということ。
言葉を手掛かりにその言葉を発した人の心のためを探ることが読解

言葉を表面的にとらえるのではなく、その言葉の根元にある心に目を向けることが大事

言葉が何かということは本来学者が研究する重いテーマなので、ここで細かな話には言及できませんが、国語指導の立場から知っておくと良いことをまとめておきたいと思います。

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言葉とは何か 〜古今和歌集の仮名序から考える〜

平安時代前期に成立した『古今和歌集』には「仮名序(かなじょ)」という紀貫之(きのつらゆき)による序文がついていますが、ここに言葉の本質が的確に書かれています
まずは、「仮名序」をのぞいてみましょう。

古今和歌集の『仮名序』

やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。よの中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるものきくものにつけていひいだせるなり。はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおにかみをもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをもなぐさむるはうたなり。

ちょっととっかかりとしては難しく感じるかもしれませんね。
今回はこの中でも冒頭の一文だけをとりあげて考えてみたいと思います

紀貫之
紀貫之

やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。

現代語訳は以下の通りです。
「やまとうた(和歌)は、人の心を種として、多くの言葉となったのであるよ。 」

というような意味です。
皆さんはこれを読んでどう感じますか? ちょっと難しい?

言葉は人の心から生えてきた葉であるという考え方

紀貫之は言葉を「心という種から生えてきた葉」だと言います。

普段何気なく使っている「言葉」という言葉に「葉」という字が入るのは、1000年の時を経てもこの考え方が定着しているということなのでしょう。

ところで、貫之はなぜ言葉を葉とたとえたのでしょうか。
ここには、「人の心を種」とするというとらえ方が関係していると思います。

人が生きていく間、心の中にはに様々な感情が生まれます。
言葉を持たないころは、感情を行動で表現していたのでしょう。


それがいつしか言葉を人は覚えます。

そうなると、心の中に蓄積された感情は心の外に飛び出そうとするのです。

つまり、心の中にある感情が種となり、それが芽を出して「葉」となって口から飛び出してくるというわけです。
その飛び出し方は人それぞれで、たくさんの言葉を使って説明する人もいれば、短いたとえに凝縮して詩のように表現する人もいるでしょう。

その葉の茂らせ方には個性があるので、まるで植物の葉のようであるということなのだと思います。

文章読解とは葉を見て、その根を掘っていく行為だと考える

受験などを目指して勉強をしている人は国語という教科や読解問題に疑問を感じるかもしれません。こんなことやって意味があるのかといった具合です。

今の世の中は、インターネットやSNSの拡大で、言葉の扱い方も変わってきました。

大量に消費される流れていく言葉」が主流になっています。

こんな時代だからこそ、改めて貫之の言う、「人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」が重要なのです。

目の前に現れた言葉。その葉をたどってその言葉を発しようとした「心」にたどり着こうと努力するです。その心を読み取ることこそが読解の基本だということをぜひ理解してください

まさお
まさお

自分の心の中にある感情を相手に正確に伝えることはとても難しいことです。数ある世の中の文章は、どれもそのここを相手に伝えようとして様々な言葉を駆使して書かれています。
言葉を積み上げて文章にするのがいかに大変な作業かを理解すると、読解に向かう姿勢が大きく変わってくるはずです。

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