こんにちは。まさおです。
前回まで2回ほど俳句読解のための基礎知識について説明をしてきました。
5/7/5の17音で、季語を持ち、切れ字を目印に読み取るというのが基本でした。一方で俳句の世界には季語もない、5/7/5にもならないというものも存在します。
今回のテーマは「俳句の知識としての無季自由律俳句」です。
なぜか中学校の定期テストによく出るので注意です!
明治時代に俳句の基礎を作った正岡子規
現代につながる俳句の基礎を作ったのは明治時代の俳人である正岡子規(まさおかしき)でした。松尾芭蕉をはじめとしたこれまでの俳諧の世界から、俳句とはこうあるべきだということを、雑誌などを通して主張したのがスタートです。
そこには何人かの仲間が集まり、「俳句革新運動」として盛り上がったのでした。
その時の基本的な考え方が、
1.5/7/5の17音を基本とする
2.季語を入れる
3.写生的な内容を基本とする
という俳句の基礎を作りました。
正岡子規の考え方から離れる人も出てきた
一方で、俳句の形式や季語を入れなければいけないというルールから離れていく人も出て来ました。
正岡子規とその弟子の系譜を見ると、最初に大きく2つの派に分かれます。
下の図の通り、高浜虚子(たかはまきょし)と河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)を中心とする2つの派です。
3人とも俳人の雅号(俳句を作るときに使う名前)で本名ではありません。
このうち、河東碧梧桐は正岡子規・高浜虚子の流れから離れて「新傾向俳句運動」というのをスタートさせ、これまでと少し違った俳句を作るようになったのです。
その中で形式や季語にこだわらない無季自由律という新しい俳句が生まれてきました。
その考え方は河東碧梧桐の弟子に引き継がれていくことになります。
無季自由律俳句の例
新しい俳句ではありますが、「俳句」であることには変わりがありません。その伝えたいところは、多少の違いこそあれ、これまでものと本質的には同じです。
また、季語が必ずないわけでもなく、ないことがあってもよいという考え方になっています。
実際に無季自由律を見てみるのが早いと思います。
弟を裏切る兄それが私である師走 (河東碧梧桐)
分け入っても分け入っても青い山 (種田山頭火・たねださんとうか)
咳をしても一人 (尾崎放哉・おざきほうさい)
どれもど子で区切ればよいかわかりづらいと思いますが、個人の感覚できればよいと思います。
いずれも現代語の文章と同じような書き方でありながら、俳句的にある一瞬の様子やその瞬間に感じた感情を描いたものになっています。
無季自由律俳句はなぜか中学校の教科書に出てきて、定期テストにもよく出ます。ここまでの基本知識があれば問題ないと思いますが、俳句にもこのようなものがあることをきちんと知っておくようにしましょう。
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