こんにちは。まさおです。
ドラゴン桜のシリーズ2が話題になっていますが、ドラゴン桜でたびたび出てくる「教育は詰め込みだ」に鳩山由紀夫氏がかみついてネット上がざわついています。
「教育は詰め込みか?」はいつも議論になるところ。
今回は「教育は詰め込みは正しいのか?!」というテーマです。
鳩山由紀夫氏の教育は詰め込み論への反論
ドラゴン桜で出てきた「教育は詰め込みだ」に対して、鳩山由紀夫氏が反論をしています。自らも東大を出ている鳩山さんですから、多少はこのあたりに意見をすることもできるのだと思いますが、鳩山政権当時の混乱を見ると、詰め込んでも詰め込まなくてもあまり差がないようにも見えますね…。
話題になった鳩山氏のツイートが以下のものです。
確かに今の時代は、過去の公式通りに解答が出ない時代です。コロナの問題一つをとっても、知識で解決できる問題でもなさそうです。
一方で、「思考力・判断力・表現力」を身につけるには、どうすれば良いのでしょうか?
教育の原点は大人の規範の詰め込みである
そもそも教育とは何のために行われるのでしょうか?
社会に出て役に立つ人間を作るという目的を標榜する方もいますが、それはずいぶん後から出てきた目的で合って、最初は「社会の維持」という大きな目的がありました。
元来、人間は自分勝手に行きたい生物なのですが、社会を作り文明を支えていくとなると、人間同士がある一定の枠組みの中に納まって相互に協力する体制がなければ大きな社会を維持していくことができません。
そのため、大人が自分たちの規範を次の世代に守らせるために、子どもへの教育が必要になってきました。学校で習っていることの大半は大人になったときに、今の社会が崩壊しないようにするための枠組みなのです。
例えば、「あいさつをしよう」とか「初対面の人との接し方」、「お辞儀の仕方」などはすべて人間同士の付き合いを円滑に進めるための知恵で、人間の生存のことだけを考えればなくてもよいものです。
それをわざわざ学校で教えるのは、その枠組みを共有できる若い世代を作り出すことで人類の存在をより強固なものにするためです。
その意味で、教育の原点は大人の規範の詰め込みでなければならないのです。
「思考力・判断力・表現力」のベースも知識
細心の指導要領では、盛んに「思考力・判断力・表現力」と言われるようになりました。かつてのように大量生産・大量消費の時代が終わり、「サービスの時代」とか「モノではなくコトの時代」などと言われるようになっています。
時代の変化とともに、重視されるものも「知識」から「思考力・判断力・表現力」にシフトしてきました。
一方で、思考するにも、判断するにも、表現するにもすべてのベースになるのは知識です。知識がなければ思考も判断も表現もできないというのが現実だと思います。
たとえば、社会に出て大きな問題にぶつかって判断を求められたときに必要なのは、先人たちが似たような局面でどのような情報や根拠をもとにどんな判断を行ったかという過去の事例です。
今はネットで調べれば過去にどのような根拠でどのような判断が行われたかを知ることができますが、やはり知識として持っている人の方が早いし自信を持った対応が可能です。
その意味で、どんな案件でも知識の詰め込みが役に立たないということはありません。
知識は大いに詰め込むべきだと思います。
一方で、もう一つ大変重要なことは知識を知識のまま終わらせないということです。知識と知識を組み合わせて新しい考え方に発展させてみるとか、先人の知恵である知識をベースに新しいケースに対応する方法を考え出してみるといった知識を使った思考が重要なのです。
詰め込み教育を一蹴するのは簡単ですが、詰め込みを放棄したところに発展がないのも事実です。基礎事項・基礎知識は徹底的に詰め込んで、その知識をベースに自由に議論をするというのが正しいあり方だと思います。
基礎学力の部分は大いに詰め込むべきでしょう。
ただし、詰め込み方には議論の余地があります。漢字を100回も書かせるのは意味がありません。楽しく短時間で大量の知識を覚えるような学習が重要です。その方法は別の記事で考えてみたいと思います。
大学のゼミなどでは詰め込んできた知識を使って新しい考え方を自ら生み出す練習をしましょう。知識と思考や判断を連係させて社会に役立つ大人になろう!
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